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親子の物語1 [たからづか]






宙組「美しき生涯/ルナロッサ」を観てまいりました。


感想などは某SNSに上げたので、ここでは省略。





美しき生涯を観ながらふと、

「最近、親子の話ばかり見ているなぁ・・・」

と思いましたので、そこにスポットしてみます。




結構デリケートな話になるのですが、

私見、ですので、ご気分を悪くされたらごめんなさい。







最近観たもの、とは、


「ファントム」
「灼熱の彼方」
「美しき生涯」


の3本。



それぞれに『父と子』というキーワードが存在します。




「ファントム」の場合は、

ストーリーの柱の1つである、エリックとキャリエールの親子。


奇形の子供であるエリックと、その親であるはずが子供を愛せなかったキャリエール。

親として、またヴェラドーヴァの代わりとして、

自分が愛さなくては、という義務感から始まった子育てが、

最後に、そして初めて、ちゃんとした親子としての愛を交える。


この、キャリエールがわが子を愛せなかった、というのは、

壮一帆さんが宝塚お茶会で言っていた、

「父親と母親の違い」

というところが一番大きいのではないか、と私は思っていて。



これは私見ですが、母親というのは自分のお腹を痛めて産んだ子は、

絶対に自分の血を分けた子であるので「この子はわが子」と愛せると思うのだとですが、

父親は「本当に自分の子である」という実証がないまま、

「あなたの子供よ」と妻から差し出される子供をわが子として認めなければならず、

返せば、妻を愛し、信じていればこそ、わが子であると認められるものだと思うのです。

だから、子供を直接愛する、という気持ちにたどり着くのはその後になる。



これは自分の両親をみていても思うことですが、

母親と父親はやはり子供に対するそもそものスタンスが違い、


母親の子供に対する愛は「”子供=自分の分身=自分”への愛」であり、

父親の子供に対する愛は「情愛」なのではないか。


「ファントム」の場合は、ヴェラドーヴァ自身がエリックが生まれたとき、

すでに狂気に陥ってしまっている、ということもありますが、

エリックに対する愛は、奇形であるかどうかはまったく関係なく、

自分自身の分身として生まれたわが子への愛と、

キャリエールに愛を裏切られた気持ちを癒すための愛でもある。

ヴェラドーヴァにとって、エリックが奇形であるかどうかなんて、関係なく、

そこを大きく超えたところに愛があった。



対するキャリエールは、自分が幸せな人生を送る、という1人の男としてのイメージから大きく逸脱した、

「愛する“妻”を自分が狂気に貶め、わが子は奇形で生まれた」

という事象を受け入れることが出来ず、

わが子であるエリックに対する情愛ですら、湧き上がるのに時間がかかった。

だからこそ、エリックに自分の本当の姿を明かさなかったのだと思います。


認めたくない。

母であれば乗り越えたかもしれない、ただ、その1点だけだった。



そんなキャリエールというキャラクターに、アーサー・コピットが、最後にエリックストーリーを語らせたのは、

キャリエール自身に、「わが子」への愛を確かめさせるためだったのではないか。


それまでの間にもキャリエールは、

「いつかエリックの人生を自分の手で終わらせなければならない」と思っていた、

と、壮一帆さんは語っていました。


キャリエールはエリックを手に掛けるときが刻々と近づいていることを意識しながら、

エリックの思い出話をしているうちに、自分のエリックへの気持ちが、

きちんと「わが子への愛」だったと認め、決心することが出来た。


そしてその、おそらく数時間後に、父としての情愛をもって、わが子を自らの手で殺すことになるのですが、

この先はいずれまた、キャリエールについて深く語るときにしたいと思います。






次回に続く。
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