親子の物語2 [たからづか]
親子の物語1から続き・・・もう少しだけ、ファントムの話。
エリックとキャリエールという親子は、
物語の始まりこそ、 「子供と保護者」という立場ですが、
最終的にお互いが大人の父と子として、ある意味で対等な立場になります。
それは、父と子、という存在であることを、お互いが認めたからなのだ、と思うのです。
さてそんなファントムとは逆の道を辿った、親子の物語もありました。
「灼熱の彼方」、後の皇帝コモドゥスと、その父マルクス皇帝。
この物語は、父がただ父として、自分の息子に愛を向けられなかったとき、
その息子がどのように生きることになったのか、を描いた作品でした。
どんな親子であろうと、本来無償の愛を注いでくれる唯一無二の存在である親からの愛を、
親を目の前にしながら、正しいかたちで受けられなかった子供は、
本当の愛を得るためにどうすればよいのか、を学べないまま大人になるのかもしれない。
そんなテーマの渦の真ん中にいるこの親子にはとても複雑な背景があります。
それは、
コモドゥスが、マルクスの、血のつながった本当の息子ではなく、
秘密裏に、マルクスの娘と交換された「皇帝になるためだけの男子」であった、ということ。
先ほどファントムのくだりで、父親は差し出されたわが子をわが子として認めざるを得ない、と言いましたが、
この場合、父も母も、本当にコモドゥスを自分自身のように愛する存在がいないことが、最大の悲劇でした。
ごく普通の養子であれば、まだ本当の両親のように、愛を注ぐことも出来たかも知れません。
けれど、マルクスは「皇帝の跡継ぎ」としての「男子」を望んでいただけであり、
「本当の息子」を望んでいたわけではありませんでしたし、母もそのことをわかっていました。
恐らく二人は、決してコモドゥスを愛そうとしなかったわけではありません。
父も母も、本当の父と母のごとく接するように努めました。
そして、本当の子供と同じように愛さなくてはならない、ということも、わかっていました。
でも、出来なかった。
そして、コモドゥスにとってその愛は、本当に愛された記憶につながるような愛ではなかった。
また、元々気性の荒さを持っていたコモドゥスは、
成長するにつれ、力と権力ですべてを思いのままにしようとするようになります。
それは彼の中の根本的な「皇帝」のイメージそのものを具体化したものであり、
皇太子殿下であるがゆえに、誰も口にしなかった、大きな間違いだった。
叱るという行為は、子供が間違った方向へ行かないように、という親ゆえの愛であり、義務です。
本当は幼いコモドゥスを叱らなければならなかった両親は、
「皇帝になるための男子」としての教育の中で、本来の親としての義務を果たすことはしませんでした。
それが、本当は愛であり、自分がお前を愛している、というサインになるということに気づきもしなかった。
気づかなかったのではなく、見ない振りをしただけかもしれませんが。
やがて成人したコモドゥスは、自分がマルクスの本当の息子でなかった事実を偶然知ってしまいます。
血がものをいう時代。
皇帝になることが人生のすべてだったコモドゥスにとって、現皇帝と血のつながりがない、と言うことは、
死をも意味することだったに違いありません。
またそれとほぼ時を同じくして、父が自分よりも、自分の幼馴染であり親友であるオデュセウスを、
まるで自分の本当の息子のように可愛がり、褒めることにも気づきはじめます。
どうして僕を褒めてくれないのか、どうして僕を愛してくれないのか。
僕の何がいけないのか。
なぜ僕ではないのか。
あなたの言うとおりに、皇帝になるためにがんばってきたのに。
コモドゥスにとって、ずっと心の中で叫び続けてきた言葉が、目の前で像を結んだ瞬間だったはず。
すべてが音を立てて崩れていく中、力と権力の姿を一心に夢見てきたコモドゥスの脳裏に、
はっきりと、自分をここまで貶め、苦しめた顔が浮かぶのです。
父、マルクス。
そして、自分がほしかったすべてを次々に手に入れてゆく、オデュセウス。
そしてコモドゥスは、自らを育てた父を図らずも、けれど怒りのままに、手に掛けてしまいます。
ただ褒めてほしかった、愛してほしかった、と自らの手のひらで死にゆく父の姿に語りかけながら。
こうして見ていると、ファントムの裏番組のようにこの公演がバウホールで上演されていたとき、
ファントムとはまったく逆の親子の関係が、ここでは描かれていました。
マルクスとコモドゥスは、最後まで認め合い、許しあうことはありませんでした。
もしかするとマルクスは、最後の最後にコモドゥスの思いに気づいたのかもしれません。
でもコモドゥスは、それに気づくことはなかった。
そして、
本当の父と疑わなかった人からの愛に、実は飢えていたコモドゥスと、
本当の父ではないはずの人からの愛情を、実は一心に受けて育ったエリック。
けれど、そんな一見相反するような息子の境遇に対して、
どちらも父親は、似たものを持ち合わせていました。
それは、はじめから息子を愛していたわけではなかった、ということ。
そして、その事実から目を背けていた、ということ。
父親とは何か、母親との違いは何か。
その、壮一帆さんの問いに「灼熱の彼方」もひとつの答えを示していたような気がします。
それにしても、同じ宝塚の地で、この二つの作品が同時に上演されていたことに、
私は偶然以上のものを感じながら、観劇していました。
もしかしたら鈴木先生が狙ったのか?!と思ったくらい(笑)
とても面白い作品だったので、早くCSで放送してほしいなぁ。
さて、次回はそんな親子たちとは、また少し違う、
石田三成とその息子・・・?について。
エリックとキャリエールという親子は、
物語の始まりこそ、 「子供と保護者」という立場ですが、
最終的にお互いが大人の父と子として、ある意味で対等な立場になります。
それは、父と子、という存在であることを、お互いが認めたからなのだ、と思うのです。
さてそんなファントムとは逆の道を辿った、親子の物語もありました。
「灼熱の彼方」、後の皇帝コモドゥスと、その父マルクス皇帝。
この物語は、父がただ父として、自分の息子に愛を向けられなかったとき、
その息子がどのように生きることになったのか、を描いた作品でした。
どんな親子であろうと、本来無償の愛を注いでくれる唯一無二の存在である親からの愛を、
親を目の前にしながら、正しいかたちで受けられなかった子供は、
本当の愛を得るためにどうすればよいのか、を学べないまま大人になるのかもしれない。
そんなテーマの渦の真ん中にいるこの親子にはとても複雑な背景があります。
それは、
コモドゥスが、マルクスの、血のつながった本当の息子ではなく、
秘密裏に、マルクスの娘と交換された「皇帝になるためだけの男子」であった、ということ。
先ほどファントムのくだりで、父親は差し出されたわが子をわが子として認めざるを得ない、と言いましたが、
この場合、父も母も、本当にコモドゥスを自分自身のように愛する存在がいないことが、最大の悲劇でした。
ごく普通の養子であれば、まだ本当の両親のように、愛を注ぐことも出来たかも知れません。
けれど、マルクスは「皇帝の跡継ぎ」としての「男子」を望んでいただけであり、
「本当の息子」を望んでいたわけではありませんでしたし、母もそのことをわかっていました。
恐らく二人は、決してコモドゥスを愛そうとしなかったわけではありません。
父も母も、本当の父と母のごとく接するように努めました。
そして、本当の子供と同じように愛さなくてはならない、ということも、わかっていました。
でも、出来なかった。
そして、コモドゥスにとってその愛は、本当に愛された記憶につながるような愛ではなかった。
また、元々気性の荒さを持っていたコモドゥスは、
成長するにつれ、力と権力ですべてを思いのままにしようとするようになります。
それは彼の中の根本的な「皇帝」のイメージそのものを具体化したものであり、
皇太子殿下であるがゆえに、誰も口にしなかった、大きな間違いだった。
叱るという行為は、子供が間違った方向へ行かないように、という親ゆえの愛であり、義務です。
本当は幼いコモドゥスを叱らなければならなかった両親は、
「皇帝になるための男子」としての教育の中で、本来の親としての義務を果たすことはしませんでした。
それが、本当は愛であり、自分がお前を愛している、というサインになるということに気づきもしなかった。
気づかなかったのではなく、見ない振りをしただけかもしれませんが。
やがて成人したコモドゥスは、自分がマルクスの本当の息子でなかった事実を偶然知ってしまいます。
血がものをいう時代。
皇帝になることが人生のすべてだったコモドゥスにとって、現皇帝と血のつながりがない、と言うことは、
死をも意味することだったに違いありません。
またそれとほぼ時を同じくして、父が自分よりも、自分の幼馴染であり親友であるオデュセウスを、
まるで自分の本当の息子のように可愛がり、褒めることにも気づきはじめます。
どうして僕を褒めてくれないのか、どうして僕を愛してくれないのか。
僕の何がいけないのか。
なぜ僕ではないのか。
あなたの言うとおりに、皇帝になるためにがんばってきたのに。
コモドゥスにとって、ずっと心の中で叫び続けてきた言葉が、目の前で像を結んだ瞬間だったはず。
すべてが音を立てて崩れていく中、力と権力の姿を一心に夢見てきたコモドゥスの脳裏に、
はっきりと、自分をここまで貶め、苦しめた顔が浮かぶのです。
父、マルクス。
そして、自分がほしかったすべてを次々に手に入れてゆく、オデュセウス。
そしてコモドゥスは、自らを育てた父を図らずも、けれど怒りのままに、手に掛けてしまいます。
ただ褒めてほしかった、愛してほしかった、と自らの手のひらで死にゆく父の姿に語りかけながら。
こうして見ていると、ファントムの裏番組のようにこの公演がバウホールで上演されていたとき、
ファントムとはまったく逆の親子の関係が、ここでは描かれていました。
マルクスとコモドゥスは、最後まで認め合い、許しあうことはありませんでした。
もしかするとマルクスは、最後の最後にコモドゥスの思いに気づいたのかもしれません。
でもコモドゥスは、それに気づくことはなかった。
そして、
本当の父と疑わなかった人からの愛に、実は飢えていたコモドゥスと、
本当の父ではないはずの人からの愛情を、実は一心に受けて育ったエリック。
けれど、そんな一見相反するような息子の境遇に対して、
どちらも父親は、似たものを持ち合わせていました。
それは、はじめから息子を愛していたわけではなかった、ということ。
そして、その事実から目を背けていた、ということ。
父親とは何か、母親との違いは何か。
その、壮一帆さんの問いに「灼熱の彼方」もひとつの答えを示していたような気がします。
それにしても、同じ宝塚の地で、この二つの作品が同時に上演されていたことに、
私は偶然以上のものを感じながら、観劇していました。
もしかしたら鈴木先生が狙ったのか?!と思ったくらい(笑)
とても面白い作品だったので、早くCSで放送してほしいなぁ。
さて、次回はそんな親子たちとは、また少し違う、
石田三成とその息子・・・?について。
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